昭和四十七年八月二十二日、朝の御理解
御理解 第四十五節 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、 三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と 言われるようになると、頭をさげることをわすれる。神信心 して身に徳がつくほど、かがんでとおれ。とかく出るくぎは 打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番 恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけ れど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、 油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
身に徳がつく程かがんで通れと、かがんで通るという事、このへんのところを焦点にしてお話を聞いて頂きたいと思う。
謙虚ということ、ほんに見よいものです。けれども、信心でいう、いわゆるここでかがんで通れというのは、普通でいう謙虚という事ではない。
ここには身に徳がつく程とおっしゃるけれども、信心が身につく程だという事だと思う。信心が身についてくる、信心が血になり肉になってくる。いわば教えが血に肉になってくるという事です。
ですから徳を受けるという事になれば、私はもう本当に頭はさがるんだと思うです 徳を受けるという事は、もう身が入っておるという事ですから、ここでも稲穂の例をもっておっしゃっておられますように、三宝様は実るほどかがむ。いわゆる、稲穂の事でしょうねぇ。稲の穂は実れば実るほど頭をさげる。
ですから私は、徳がつくという事は、もう実ったのですから、だからこれはさげようとしなくても、さがってくるのが、いわゆるかがんで通らせて頂かねばおけんと言う事になるのじゃないでしょうかねぇ。
信心が段々わかってくる。かえってかがんで通るのではなくて、頭が上にあがるようになる傾向が私共にはあります。
いうなら、先生と言われ程しの信心が出来た。わかったから人から先生と言われるようになるのでしょうけれども、その言われる方になってみると、今度は少しいうなら、慢心が出てくるわけです。だから先生と言われる程しのところの信心が、本当に大事にされなければならないという事です。
これは昔、二十年も前に私が神様に頂いた事を手控えにしとったものを、久保山先生が、こんな雑記帳に何冊かまとめてかいて下さってあったものが残っております。 先日からちょっと出す機会がありましたから、人に貸しておりましたらね、今日ここに置いてございますもん。それがかえって来ておる。
それをちょっと開かせて頂いたら、こういうような御教えを頂いております。
「ほどほどに手に持つ玉は光れども、心の玉に光なし、徳は心の研かれてこそ」というのがあります。ほどほどに手に持つ玉は光れどもと、あちらはなかなか人物がいいとか、なかなか謙虚だとか、まあそれはそれなりにですね、人それぞれによいものを持っておるという事。形の上に表れておるという事。
だからそういう例えば人程という事はないでしょうけれども、人に例えば大将と言われたり、先生と言われたりする程しの、おかげを頂いたらです、尚一層そこからがいうなら、手に持つ玉にみんなが頭をさげているのですから、心に持つ玉が光ってこなければお徳は光ってこないと思う。
なかなか人物がいいというのは、手に持つ玉はほどほどに光っておる。それではなくて人間は、カサ気と慢心のない者は無いと言われるくらいいわゆる、うぬぼれです 人に褒められた事なんかは、もういつまででん忘れられんですね。皆さんどうですか。「ああたの心はもう、とても真似の出来ん」と例えば特別に褒められた事なんかは、もう昔褒められたつでん忘れる事が出来ない程に、その時にやっぱ嬉しかったわけですよね。それがその慢心なんですよね。
段々信心がわかっていうならば、わかってくるほど、いや徳を身につけていけばいく程、かがんでいくという稲穂のありかたになるとですね、褒められるという事に,ヒャとするようなものを感ずるくらいにならなければいけんです。
何故かというと、自分自身を本当に知ってるからです。自分自身が本当にわかってくるからです。もうここは真似の出来んと言われるとほんな事に、俺の真似は出来んように思うてしまうです。それでは私はかがんで通れない。
調子がよい時は、いよいよ信心がいよいよ謙虚な信心になっていかなければならんし、人から褒められる時には、もうそれこそ、ヒャッとするくらいな思いになさせて頂くくらいな信心を頂かなきゃいかんです。
いや、むしろ長所と自分を見て人が褒めてくれるのは、むしろそれは短所だとわからして頂くような信心でなからにゃいかんです。
お互いが形の上に持っておる玉はほどほどに光って、又それをいよいよ光るものにしていく事も有難いですけれども、それは形の事。
同じところにこういう御教えを出ておる。「心を傷つけられた時は、自身が慢心しておる時と悟れ」と悟らにゃいかん。
心を傷つけられる、自分を少しはよかつのように思うとる。いわゆるプライドの高い人なんかは、いつも心が傷つけられ通しです。自分を馬鹿にしとるとか傷つける。 ですから成程、プライドを持つ事は私はある意味で、素晴らしい事なんですけれども、本当は教祖金光大神の信心から言うとです、いわゆる土のような、泥のような信心と言われるくらいですから、もうプライドなんかは捨てなきゃいけません。
家柄がよかととか、お金があるとか、私んところは皆んな頭がよか筋とかと要ったようなプライドは捨てなければ、本当の信心にはなれません。
身に徳がつくほどかがんで通れと、ですから、ここのところは徳を受けたというのではなくて、徳を受ける過程にあるのですから、やはり自分で心がけておかんと、つい頭が上にあがる。根が本当に入ってないのですから。
身に徳がつく程という事は、いよいよ信心が身についてくる程という事でしょう。 信心がすこしわかってくるという事でしょう。わかってくる、やはりおかげを受けるわけです。
そうすると、とてもああたの信心の真似は出来んとか、まあいろいろに褒め言葉をもっていうなら、人から先生といわれるようになってくると頭が高うなるという事なんだ。私はこの慢心があるとですね、喜びが与えられないと思うですねぇ。いうなら自分がよかつのように思うておる。人より優れておるような思い方は喜びが、いうなら頂けない。頂けてもそれは浅いものであります。
本当にもう自分のような者に、私のような者に信心も出来ませんのにという時ですもう本当に心いっぱいに喜びが頂けれる。
世に三宝さま踏むなという事は、私は大切なもの、大事なものをお粗末にするなという事だと思う。大切なもの、尊いものという事がです、私共がわからない、わからないから、つい三宝様にもひとしいものを踏みつけるような事をする。
これは例えば、人は褒めてくれんでも、自分でよう思われたいという心があるですねぇ。誰からでもよう思われたい。そういう精進は努力は惜しまない。自分がよう思われたい。ハッとする程しに自分が認められたい。又は自分がよいものに見てもらいたい。そして、それはまあ言葉が悪いですけれども、ごまかしおえたという、自分はよいもの、例えば何というでしょうかねぇ、あちらはなかなか真面目だと。
だから自分が真面目であるという事を人に皆に認めさせようとする。ですから、自分ではです、ある程度、成程、精進もしてますから、自分は真面目だと皆が認めてくれると思う。
私は今日はそういう心をですね、そういう心をひとつよく検討してみる。とっちめてみるという事。それはだから結局、反対の事であるいう事になります。
そんなら自分自身の心を、真面目と皆に思わせとるし、まあ皆がそれを認めてさえおる。真面目という事だけじゃなくてもいいですよね。
けれども自分がいよいよ信心でです、その真面目と思われとる自分の心を検討したら、もう不真面目である自分にびっくりするくらいです。
私は信心とはそういうところに気づかせてもらい、そういうところに本気で取り組ませて頂く事だと思う。
今日、私、御神前で、私はあの人の名前は知りませんけれども、おじいさんの役の温厚な顔をししているんです。けれどもその実は温厚な顔をしとるけれども、実は悪役ばかりをするという人がおるんです。その人の顔を頂きました。
もう人が皆が温厚だと思っているんです。けれどもそんならば、心の底には悪心を持っておるというのです。だからそういう人をごまかせるものを持っている人ほど、私は本気にならなければいけないという事です。
あの人は実直丁寧だとか、あの人はなかなか真面目だとか、あの人は例えば親切だとか、そういう例えば誉め言葉のいろんなものをです、自分にも持っておる、いわゆる手に持つ玉はほどほどに光っとるわけです。
けれどもそれを、そんなら自分自身の真面目と思われておる人が、本当に自分自身の心に、教えの光を当てたらですね、真面目であるどころか、実に不真面目な自分をそこで発見するです。
そこからです、今日私が何というか、本心の玉に光がない言われる事になるのじゃないでしょうか。
徳がつくほど、信心がわかるほど、かがんで通れと、あちらは本当に真面目と、けれども、真面目と人から認められておるから、いよいよ、真面目なふうをしていく。 又一般ではそれを真面目というのです。けれども信心はそれを、ひとつもういっぺん、真面目と言われればその真面目であるそう、その自分の心の裏方を見てみるのです。そうすれば自分は人から真面目なように言われておるけれども、不真面目であるという自分がわかるです。
ですから、ああた、真面目と人から言われたら、それこそヒャッとするようなものをです、感じさせて頂くからこそ、私はかがんで通らせて頂く事になるのだと思うです。いいえ、とてもとてもという事になるのです。私共に極端な言い方ですけれどもいわゆるごまかし心、人に少しでもよく見せようとする心、だから一応は人をごまかしておる。
例えは、人相なら人相の上でも、何とはなしにおとなしい顔、それはお地臓さんのような顔をした人でちゃですね、もう心はとっても悪い人があるですよ。
そら殺人犯なんかにも、かわいらしか顔をしたのがおるでしょうが。あれはね、例えばお芝居なんかではくげ悪とかね、白悪とか申します。白ぬりしてるわけです。
舞台に出る時には白くぬっとるから、美しい、きれいに見える。又くげ悪というのは、公卿さんの恰好をしておる。それでいて悪心の役を公卿悪と申します。
もう本当に、成程見かけみ立派な先生です、立派な先生ばってん、それこそお地臓さんのごとしてあるけれどもです、だから知らん者はとてもあっちの先生は真面目でなかなか立派だとこういうわけです。
けれども、その人は、それをごまかし通して例えば一生を過ごすわけです。ですからその人自身の心の中には、いよいよ喜びが頂けんのです。喜びが頂けんから、おかげは決して素晴らしいおかげに決してなりませんですね。
信心は実証がありますからね、その裏付けというのが。だから知らん間はです、もう本当に知らん間は素晴らしい、本当におとなしい真面目、几帳面、本当に人相でも地臓さんのごとしゃる。
けれども、何かひとつかみね、その人の奥に触れた時にがっかりするような人があります。そういう人は自分が真面目でおとなしいと言われとるもんじゃから、もういつも、真面目でおとなしいふうを、例えば昼は、【 】する人があるとするでしょうか、もう夜になたらガラリと変わる人がある。二重人格です、だからうちの父ちゃんは真面目と思うとるとは、ひょっとするとごまかされとるです。
家の家内はなかなかと思うとるのは反対にごまかされとる。だから、人というわけじゃないけれどもですよ、これは自分自身の事、真面目といわれる程しのひと、あっちは出来ちゃるといわれる程しの人が本当に出来ておるか。
真面目であるという事を教えの鏡に照らされて頂きますとです、はっきりわかってくる事が信心なんです。
だから誉められたらヒャッとするようなものを感じさせて頂くような私は生き方が信心が身につくほど、ここでは徳が身につく程とおっしゃっておられるが、信心が身につく程、かがんで通れという事になってくるのじゃないですか。
油断をすな、慢心が出来るおかげをとりはずすぞという事は、形の上のおかげをとりはずすという事ぜでしょうけれども、自分の心に信心の喜びが今頃感じられなくなったというのです。
時にはもういよいよ私はおかげ落としておる時だと思うです。今日は身に徳がつく程かがんで通れというところをです、只そんなら、かがんで通れとおっしゃるから、【】を低うして頭を下げどうしに下げたような勝手で通れという事ではなくてです、自分が例えばあちらのそれこそ、女でいうならばです、貴婦人と、いうなら、良妻賢母といったような自分でです、子供達まで良妻賢母であるようにごまかして、本当に良妻賢母なら子供達が素晴らしゅうもう出来なければいかんと思う。
主人が素晴らしい主人に、世の中に出てくると思うです。けれども、いうならば、その良妻だ賢母だといわれるタイプの人はです、それを押し通してごまかして、一生を終わってしまうというような人があるです。
それはありますよ。特に教育者の中なんか本当にもうその人の家に入ってみなければわからんというのがあります。だからそれをごまかし続ける。ですから本当に良妻とは賢母とはという事を信じて頂かせて頂く特にです、本当に人から良妻賢母のように言われるけれども、自分という者は、本当にこんな相すまん私である、つまらん自分であるという事を気づかせて頂いて、相すまんというお礼が子供にでも主人にで言われるようなこれは反対に言うと。
家の父ちゃんみ立派だと、家内から思われとるから、だから思われ通しに思われたいから、ごまかすわけです。自分という者をひとつ検討してみてです、そう言われれば言われる程、自分の心の中に本当にむしろ、痛いところにさわられるような思い、ヒャッとするような思いがするくらいな信心を身につけて行く事。
そこには自ずとかがまなければおられないものが出てくる。そういう手に持つ玉はほどほどに光れども、心の玉に光なしというように、手に持っとる玉で皆さんを欺脯しとる。だから欺脯し続ける例えば精進を止めてです、むしろそういうものはいっぺんぶち壊して、いよいよ心本位という自分の心の方へ重きを置かしてもらって頂くところから、いわゆる自ずと謙虚な実意な心が生まれてくる。
そういう心の上に喜びが与えられる。それは心の玉が光ってくるからなんです。
心の玉が光ってくる。形の光よりも、心の玉のひかってくる精進こそ私は、世に三宝様を踏むなと、三宝様を踏むと目がつぶれるという事がです、そういう事だと思います。心に有難いものがないから、本当に心の目をもって見る事が出来なくなってしまう。特にです、自分の持っておる形の玉が、ほどほどにひかっていると、ある意味でうぬぼれを持っている人ほどは、自分の心の玉をひからして頂く事に焦点を置いて信心修行させてもらって身に徳がつくと思います。
もう身に徳がつけばかがんで通ろうと思わんでも、自ずと私は頭が下がってくると思うですね。どうぞ。